親日李登輝氏の日本名を見る

 かねてから病気療養中だった台湾の李登輝元総統が、7月30日午後8時24分にお亡くなりになりましたね。享年98歳。
もうすぐで、100歳に届く年齢でした。本当に頑張られましたね。

 台湾の未来のため、日台友好,きずなを深めるためには、死ぬわけにはいかなかったかもしれません。 目には見えない影の力が支えていたかもしれません。

 では、李登輝氏の略歴を簡単に見て行きたいと思います。詳しい事は、他を当たってくださいね。

       李登輝

 李 登輝(り とうき)  1923年【大正12年】1月15日~2020年【令和2年】7月30日
台北州淡水郡三芝庄(現在の新北市三芝区)浦坪村の『源興居』で李金龍と江錦の次男として生まれる。【2歳年上の兄李登欽(日本名*岩里武則)は、台湾の日本統治時代にフィリピンで大日本帝国海軍二等機関兵(戦士後、上等機関兵)として従軍し戦士している。】

 
 李登輝氏は台湾の政治家、農業経済学者。第4代中華民国総統(7期途中昇格・8期・9期、1988年~2000年)。コーネル大学農学経済学博士、拓殖大学名誉博士。プロテスタント・長老派。 日本名、岩里政男(いわさと まさお)。本省人初の中華民国総統


 蔣経国を副総統として補佐し、その死後は後継者として中華民国の歴史史上初の民選総統。中華民国総統。中華民国を本土化し、台湾を国家と位置ずけた。

        学生時代

 台北高等学校に入学し、皇民化運動の中で、『岩里政男』の日本名を得る。 『22歳までは日本人だった』と公言し,のち台湾が独立しても、日本精神と親日を貫きとうし、日本にも鼓舞しつずけた。
この日本名『岩里政男』を見る時、驚くべき日本との繋がり見えるのである。

1943年9月、台北高等学校を卒業。本土の京都帝国大学農学部農業経済学科に進学する。

1944年、学徒出陣。大坂師団に徴兵検査第一乙種合格。台湾で基礎訓練を終え、日本に戻り、名古屋の高射砲部隊に陸軍少佐として配属され、終戦を名古屋出迎えた。

         台湾時代

1945年日本の敗戦により、1946年春に台湾へ帰り、台湾大学農学部農業経済学科に編入学する。翌1947年、国民党による二・二八事件によるに反発する暴動に参加したと言う。しかし、共産主義は失敗するとしていた。
1948年に農学士の称号を得る。 1949年、台湾大学を卒業。同大学農学部の助手とし採用される。同年、淡水の地主の娘である、台北地北第二女子中学(現在は台北市立中山女子高級中学)の曽文恵と見合い結婚をする。

 また、アメリカにも奨学金を得て留学、修士学位を取り、中華民国に帰国、台湾省農林庁技正(技師)兼農業経済分析係長に就任する傍ら、台湾大学講師として勤務する。 その後、台湾大学助教授にもなる。

        政界進出

農業専門家として、1971年8月に蔣経国の知遇を得て、国民党に入党,蔣経国が行政院長に就任すると、無任所大臣にあたる政務委員として、入閣。49歳の当時最年少での入閣であった。 移行6年間の行政院政務委員として活躍しました。

その後1978年、蔣経国により台北市長に任命されました。
1982年には長男の憲文が上咽頭癌により死去しています。

1984年、蔣経国により副総統候補に指名され、第1回国民大会第7回会議選挙の結果、第7期中華民国副総統に就任した。 

1988年1月13日、蔣経国が死去すると、副総統の李登輝が就任する。  盤石出ないものの、徐々に政権基盤を固め、民主化を進めた。

1996年には、初めての総統直接選挙が行われ、台湾史上初の民選総統として第9期総統に就任した。

また、台湾の独立政策をも推し進めた。

 政界引退後の、2007年に日本訪問に際し、6月7日には、日本兵として戦死した兄や、3万人余りの台湾人日本兵のうち26000人が奉られている靖国神社を参拝した。 その際に李登輝は靖国神社に対し『兄の霊を守ってくれることに感謝している』と述べている。

         死因

 2020年2月、自宅で牛乳が気管に入ったことで誤嚥性肺炎となり入院。7月に入って体調が急変し、7月30日19時24分頃、入院先の台北栄民総医院で死去しました。 97歳でした。

 頑張りましたね。 

 なるべく短く略歴を書くつもりでしたが、ちょっと私としては、長めになってしまいました。

今から名前をみていくことにしますね、

     李登輝
李登輝1

 李登輝氏の名前を見ると、子供の頃を表す天画(姓画)、地画(名画)は吉画です、27画は、頭脳明瞭、意志強固、やや協調性欠ける、良くて中年まで。 15画は事業達成型、人画円満、地味であるが着実。海外との関係あり。日本。 そして、天画、地画は晩年も表す。

 ただ後の、一番重要な時期を表す内画、外画(対外、対人関係)、そして総画は凶画。 内画19画、頭が良く、直感力鋭いが、挫折、孤立、厄難、短命。  外画22画、挫折、無気力、孤独、病気の暗示。  総画34画、晩年崩壊、余生はじり貧の暗示、家族縁薄い(兄戦死、長男、癌で先立つ、当たっている面も)。

 政治家、学者の名前は良くない人も多い様ですが、特に政治家は良くないみたいですね。 でも、李登輝の名前ではとても変。現実のギャップも有り。

 しかし、親日であり、『22歳まで日本人であった』とはばからない日本人の名前『岩里政男』見ると、驚くべき結果が、全て吉画。大吉と言っていいでしょう。 日本との強い縁、人生観、生き様。 兄は自分の意志とは言え戦死、しかし日本を恨む事も無く、兄を愛し、讃え(たたえ)、日本との絆を強め、かつての強い日本の精神を取り戻す事をうったい、つずけた李登輝氏。  
 この名前を決して否定しなっかったでしょう。この名のエネルギーが彼を生涯支えつずけたに違いありません。

 優れた人がまた一人亡くなってしまいましたね。 ご冥福をお祈りしたいと思います。




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